所沢の音楽情報・タウン情報 ptoko(ピートコ).JP

Share |
  • ptokoについて
  • お問い合わせ

トップページ>

この人

この人

大岩道也(1)-1.jpg

テノール歌手  大岩 道也 さん (その1)

所沢在住のベテランのオペラ歌手がおられると紹介していただき、新所沢駅近くのお宅に伺いました。レッスンを終えたばかりの大岩さんから、数々のエピソードをまじえたオペラ談義をお聞きしました。(文=ゴマッジョ 写真=倉本兼治)

大岩(1)夫妻.jpg

≫≫ 合唱団で声が出なくなってきた ≪≪

──イタリアへの留学については、貴著「オペラ留学奮戦記」やホームページの講演録「わたしのオペラ留学」に詳しいですが、そもそも音楽との出会いは?

大岩 父が中学の音楽教師だったんですよ。それで、自然と私も音楽教師になろうと。私の故郷は鳥取の山村ですが、そんな地には珍しく、家にピアノがあったんです。父は婿養子ですが、ピアノを買うのが条件だったようです。学校でもまだオルガンの時代でしたね。中学時代は3年間、父に教わりましたから大変でした。学校で叱られ、家で叱られ、逃げる場所がないんですね。
 音楽をやるようになったのは、大学受験を控えた高校3年からです。あまり勉強をしてなかったので、ピアノと歌をやれば受験科目が少ない島根大学なら受けられると、9月から歌の先生について勉強を始めたんです。
 大学を卒業して、ある先生の紹介で京都の女子高の教師になったんですが、もっと音楽の勉強をと思って東京に出ました。初めは二期会合唱団に入ってここで2年間、次に移った東京混声合唱団に4年いました。

──合唱団の歌手としてのスタートですね。オペラに進まれたのは?

大岩 合唱団の6年間はとても忙しかったんです。当時は本数制で、ステージや録音など月に25本がノルマだったんですが、できる人には仕事がどんどん来る。多い月には60本こなしたことがあります。給料も倍くらいに。東京混声合唱団にいた4年間のうち、3年半くらいは1日も休みがなかったです。日曜日も、NHKの「世界の音楽」の収録がありました。
 しかし、5年たった頃から、声がだんだん出なくなってきた。生意気だったから、他人が変な声を出すと大声で文句を言っていたのが、自分の声が…。これでは仕事は続けられない、仕事を変えようかと、毎日のように悩んでいました。しかし、忙しくて別の仕事を探すヒマもない。
 ところで当時、私の周りには留学帰りがたくさんいました。とくにオペラの本場のイタリアが多かったですね。話を聞くと楽しそうだし、うらやましくなって、こちらも行きたくなる。
いろんな人に相談しましたが、イタリア語はまったくできないし、オペラの勉強をしたこともない。みんなにバカにされました。「30にもなって何を考えてるんだ」「いまからじゃ、とても勉強できない」って言う。
 だけど、どうしても行きたい。最終的には、もし勉強できなくてもいいからとにかくむこうに行って、オペラを観るだけでもいい、という気持ちでしたね。

──よく思い切られましたね。

大岩 それしかなかったんです。しかし、行くときが大変でした。ちょうど30歳の1972年、二人目の子どもが生まれたばかりだったんです。私の親はあきれかえってしまうし、家内の親や兄は怒るし…。

──奥さんは?

大岩 「行きたいんだったら、いいよ」って。それでおしまいです。

──奥さんは学校の先生をされていたとか。

大岩 そうです、所沢で。家内は大学の一年下です。オーボエを吹いていました。

大岩(1)-3.jpg

≫≫ 必死に頼み込んで弟子入り ≪≪

──さて、イタリアでの奮戦記ですが。

大岩 たまたまミラノに一人だけ知っている先輩がおられ、個人レッスンをしているドメニコ・マラテスタ先生を紹介してもらいました。9月には、ミラノ国立G.ヴェルディ音楽院に入りました。
 このマラテスタ先生のおかげで、私がオペラを歌えるようになったんです。最初レッスンをお願いに行ったところ、「ダメだ」と言われました。で、「エッ!」と。私の常識では、レッスンを断られるなんて考えられなかったんです。教えないという先生を初めて経験したんです。
 なぜダメなのか、何回も何回もたずねると、「責任をもてないから」と言われたんです。というのは、私は1年間しかいないと言ってましたから。1年ではオペラ歌手には育てられないと考えられたんですね。それを聞いて、「あっ!」と思って、これは絶対にこの先生に教わりたいと頼み込みました。それで、「お願いします」「ダメだ」と1時間ずーっとねばり、とうとう、「来てもいい」と言ってもらいました。
 あとになってわかったんですが、マラテスタ先生は、日本では知られていませんけれど、むこうのオペラ関係者のなかでは超有名人だったんです。25歳でデビューして、40年間舞台に立たれていたんです。イタリアでは、オペラ歌手を20年間続けると勲章が授与されることになっていますが、先生は2度勲章を授与されたんです。しかし、その勲章も引き出しの中にほうり込んだままでした。
 先生はいわゆる職人タイプで、レコーディングも一切していません。たまたまいっしょに歌った他の人のレコードに入っていたのが2回だけ。名前なんかを求めなかったんですね。それが、とんでもなくすばらしい先生だったんです。私のオペラの恩人です。結局、3年間ミラノに残りました。

──ホームページの講演録を見ますと、留学した人はほとんどが前より下手になって帰ってきた、とありますが?

大岩 そうなんです。日本にいるときはとても不思議に思っていたんです。留学するとうまくなるはずなのに、なぜなんだろうと。しかし、むこうに行って経験しているうちにわかりました。
 要するに、日本とイタリアではやることが全然違うんです。まずそれを理解しないといけない。そして、日本の経験をすべて捨てて、イタリアの先生の言ってることを一からやらなければならない。しかし、これがなかなか捨てられないんですよ。クセが抜けないんですね。
 日本でやってたことをもちだすと、むこうの先生には理解できませんから、かみ合わなくて先生も困ってしまう。それで、教えられないままに時間が過ぎ、精神的に空白期間ができて、結局ダメになってしまうわけです。

──大岩さんはそれをどうやって克服されたのですか?

大岩 私はむこうに行ってもダメだと言われていました。だから、なんの準備もしていませんでした。語学もオペラも勉強していない。また、3月に合唱団を辞めてからは、半年間、必要なとき以外は声を出さないで静かにしていたんです。結果的にそれがよかったんでしょうね。喉が休まるとともに、それまでにやっていたことを忘れることができた。他の仕事をしようかと思ってたほどですから。
 そして、日本にいるときに、合唱団の関係でイタリアのオペラ歌手たちのリハーサルや本番をずっと聴いていました。で、日本との違いがよくわかっていました。ですから、むこうに行ったとき、「いままでやってたことは止めよう」と思ったんです。

──うまい具合に切り替えられたわけですね。

大岩 で、9月から本当に基本から入ったんです。とにかく先生の言うことを一つひとつやっていく。そして、これはいまでもよーく覚えていますが、2ヶ月半経って、レッスンの途中で、それまでモヤモヤしていたものが、一瞬にして霧が晴れるように、バーンと変わった。教えられたように声が出るようになったんです。まったく変わりました。
 それまでの2ヶ月半の間は、悶々としていました。日本でみんなに言われたことが頭の中をよぎる。そして、「やっぱりダメだ」と。何を教わっているかわからないんですから。しかし、ある日、一挙にして目の前が開けた。

──開眼したわけですね。

大岩 やっと、オペラを勉強するための条件が整ったんです。しかし、同時に悩みも生まれました。日本に帰ってからのことです。一人前のオペラ歌手になって帰っても、私には歌う場所がない。日本では、有力な先生の後ろ盾がないと舞台に立つチャンスがない。ここで勉強するのはいいが、それを活かせないのでは、意味がないのでは、と悩みました。

──成果を見せるところがない。

大岩 ええ、かなり悩みましたね。しかし、割り切りました。しっかり勉強して日本に帰り、イタリアの発声法をきちんと伝えるのも意味のあることだと。そこに思いが至って、真剣に勉強しようと決心しました。マラテスタ先生も、私がきっかけをつかんだことで教え甲斐があると、意欲的に指導してくださるようになりました。
 そして、教われば教わるほど、いろんなことがわかってきてうまくゆくものですから、これは、帰って教えたら、弟子がいっぱい来て…と、じつにのんきに考えるようになりました(笑い)。

──そのへんの楽観的なのがいいのかも(笑い)。

大岩 それで、必死になって勉強しました。そして、最後の一つ前のレッスンで発声理論を教わりました。最後のレッスンが終わるとき、先生が、「いままで教えたことをきちんと守りなさい」と言われました。「きちんと守れば、君は60歳までオペラが歌えるよ」とも。
 さらに、「だから、60歳までは弟子はとるな」と。

──それまで現役でいろ、と。

大岩 これには参りました。帰ればいっぱい弟子をとって悠々と…と思っていましたから。「エッー!」っていう感じです(笑い)。
 それで、先生との約束どおり60歳まで歌をうたうことができました。そして、2002年10月に、留学30周年と還暦を記念してリサイタルを開き、初めてのCDを作りました。

──では、続きはイタリアでの活動と、今後のことについてお聞きしたいと思います。(2011.4.16取材)