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音楽と私 Backnumber

「私の音楽履歴書」(第3回) 阿部美穂 さん
「私の音楽履歴書」(第2回) 阿部美穂 さん
「私の音楽履歴書」(第1回) 阿部美穂 さん
シャンソンの魅力にふれて  田辺慶一 さん
「アメリカンミュージックとともに」  ロイ 田沢 さん
「アロハに惚れて」  中野 彰 さん
演歌「夜空」からクラシックまで(その3)  坂井 誠 さん
演歌「夜空」からクラシックまで(その2)  坂井 誠 さん
演歌「夜空」からクラシックまで(その1)  坂井 誠 さん
「我が青春のビートルズ!」  峯岸雅広 さん
「ロックとの出会いと作曲」  吉乃黄櫻 さん
「オカリナの町ところざわ」を夢見て10年!  岡本詔一郎 さん
「クラシック」と「パッヘルベルのカノン」 中川 竜 さん
一本の電話とレクイエム  泉山 康 さん
「航空公園ジャズバンドの夢」 原宿眞智寿 さん
“ラヂヲ”から始まった音楽放浪記(第三部) 山田一雄 さん
“ラヂヲ”から始まった音楽放浪記(第二部) 山田一雄 さん
“ラヂヲ”から始まった音楽放浪記(第一部) 山田一雄 さん
「雨の日のビル・エヴァンス…」  須藤麻季 さん
「ブラームスと間奏曲」  中川奈緒美 さん
『とこぴあ』と私の還暦ピアノビギナー練習法        大勝こうじろう さん
「シャンソンとの出会い」  中條 進 さん

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私と音楽

音楽と私

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「津軽三味線を生涯の友に」  畑中裕生 さん

【 畑中裕生(はたなかひろお)さんのプロフィール 】
新潟県生れ、東京育ち。所沢市在住。
津軽三味線歴11年。
元海上自衛官。青森県勤務時代に津軽三味線と出会い、その虜になる。
青森県に3年、勤務地が旧南部地方であったため、南部系の曲を中心に習う。
平成21年に所沢市の紅明人師範のもとに入門、津軽系の曲を中心に習い、現在に至る。
同門生徒さんの間で構成する明人会(あきひとかい)のメンバー。

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♪♪ 弘前で人生最大の出会い ♪♪

 私は、小学校、中学校、高校と「授業でやる音楽」が大嫌いで、これが高じて「音楽なんて、楽器なんて絶対にやるもんか!」と思っていました。
 そんな私が、和楽器ではありますが津軽三味線の道に足を踏み入れたことは、自分でも驚きというより衝撃でした。そして、その出会いは全くの偶然でした。

 私が津軽三味線に出会ったのは、仕事で青森勤務をしている時でした。休暇で弘前に妻と旅行した時の事、弘前城のすぐ傍に「ねぷた村」という「弘前ねぷた」を展示してある館があり、そこで津軽三味線の生演奏を聴きました。私のすぐ目の前で演奏されている津軽三味線の力強い響を聴き、生まれて初めて自分で弾いてみたいと思いました。
 音楽をやったことのない私が、楽器にアレルギーを持っていた私が「津軽三味線を弾いてみたい!」・・これは私にとって大きな衝撃でした。
 さて、旅行から帰り早速教室を探し始めると、何と家から車で2~3分の所に先生が・・。すぐに入門しました。最初は津軽三味線を続けることができるか不安でしたが、稽古を始めるとすぐにのめり込みました。
 その頃、私は単身赴任生活をしていましたが、稽古に夢中になるあまりテレビも見なくなり、忙しい時でも10分あれば稽古するようになりました。さらに、家では晩酌もしなくなりました。酒を飲むと手元が狂い、せっかくここまで出来ていたのに(弾けていたのに)また、自分が下手になった気分になるためで、「弾くなら飲むな、飲むなら弾くな!」という標語が自分の中で自然にできていました。
 そして、はたと気づくと津軽 三味線は「生涯の趣味」となっていました。今思えばあの弘前で津軽三味線と出会ったのは人生最大の出会いだったと思います。

 さて、仕事柄、地元の人と付き合うことが多く、私が津軽三味線を始めたと聞くと、「是非聞いてみたい。」と各所から言われました。まだ、始めて1~2年しか経っておらず心の中ではとても無理だと思っておりましたが、私は断りませんでした。「津軽三味線に関して自分は絶対に逃げない。」というモットーが出来ていました。それほど真剣に取り組んでいたということです。
 やがて、宴会やパーティーの会場で大勢の人の前で津軽三味線を披露するようになりました。しかし、「絶対に逃げない」というモットーとは裏腹に、実際には、ストレスどころか1週間くらい前になると気が重く、暗い顔になっていく自分がわかりました。
「なぜ、演奏するのにそんなに気が重いの?」を言われるかもしれませんが、やはり、当時の私は(今もあまり変わらないかもしれませんが)とても人前で弾ける自信がなかったのです。(「絶対に逃げない」というモットーとかなり矛盾していますが・・。) 
 とにかく、稽古に稽古を重ね、本番では自分が持っている全てを出そうと思い、そして出し切りました。  
 すると、さすが地元青森の人々、演奏の上手い下手は別として、津軽の曲、南部の曲を聴くととても喜んでくれ、場が大変盛り上がりました。
 青森での演奏経験は私にとって非常に貴重なものとなりました。「何事にも誠心誠意、一生懸命やれば結果はおのずと付いてくる。」ことを実感しました。

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♪♪ 日米交流で「和の文化」を発信 ♪♪  

 さて、このようなことが続き、さらに稽古を重ね、関東へ転勤。場所は神奈川県の厚木航空基地でした。厚木航空基地では海上自衛隊と米海軍が同居しており、双方の交流も盛ん。そして、今度は米国人を前にして演奏する機会が訪れました。 
 大勢の外国人の前でどうやって津軽三味線を披露しようか・・? 音楽に国境はないという言葉もありますが、そこは日本特有の音楽、津軽三味線について彼らは何も知らないので、歴史や特徴などをあらかじめ調べて、英訳して用意しておきました。演奏では、津軽三味線が奏でる力強いビートにアメリカ人も非常に感動してくれました。
 しかし、演奏をするだけで不十分という私の予感は的中し、演奏後、質問の雨霰。彼らは日本文化、すなわち「和の文化」に非常に興味を持っていて、津軽三味線という(得体のしれない?)楽器にも興味津々でした。私の用意したつたない説明でしたが、一生懸命やった甲斐あって、津軽三味線を通じて日本の音楽、「和の音楽」の一端を理解してもらう事ができました。
 さて、音楽は実にたくさんの効力を持っています。その中で「人と人との懸け橋」という効用も重要な一つであると考えます。さらに、和楽器の場合は「和の文化を発信する。」という効用も付け加わると思います。
 厚木航空基地において、津軽三味線を通じて日本人と米国人の心をつなぎ、さらには日本の文化、「和」の文化の一端を発信し得たとの手ごたえを感じました。
 そして、このとき津軽三味線をやっていて本当によかったと実感した次第です。

 最後に。
 さて、現在では、稽古と並行して会の発表会やボランティア活動にも精を出しています。
 まだまだ人前で弾くには技量が足りないと感じていますが、精一杯心を籠めて弾く、自分らしさを出す・・このことによって少しでも多くの人々に感動を与えたい(ちょっと大上段すぎますが)、また、与えることができる技量をもてるよう稽古に励んでいきたいと思います。