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音楽と私 Backnumber

「私の音楽履歴書」(第3回) 阿部美穂 さん
「私の音楽履歴書」(第2回) 阿部美穂 さん
「私の音楽履歴書」(第1回) 阿部美穂 さん
シャンソンの魅力にふれて  田辺慶一 さん
「アメリカンミュージックとともに」  ロイ 田沢 さん
「アロハに惚れて」  中野 彰 さん
演歌「夜空」からクラシックまで(その3)  坂井 誠 さん
演歌「夜空」からクラシックまで(その2)  坂井 誠 さん
演歌「夜空」からクラシックまで(その1)  坂井 誠 さん
「我が青春のビートルズ!」  峯岸雅広 さん
「ロックとの出会いと作曲」  吉乃黄櫻 さん
「オカリナの町ところざわ」を夢見て10年!  岡本詔一郎 さん
「クラシック」と「パッヘルベルのカノン」 中川 竜 さん
一本の電話とレクイエム  泉山 康 さん
「航空公園ジャズバンドの夢」 原宿眞智寿 さん
“ラヂヲ”から始まった音楽放浪記(第三部) 山田一雄 さん
“ラヂヲ”から始まった音楽放浪記(第一部) 山田一雄 さん
「津軽三味線を生涯の友に」  畑中裕生 さん
「雨の日のビル・エヴァンス…」  須藤麻季 さん
「ブラームスと間奏曲」  中川奈緒美 さん
『とこぴあ』と私の還暦ピアノビギナー練習法        大勝こうじろう さん
「シャンソンとの出会い」  中條 進 さん

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私と音楽

音楽と私

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“ラヂヲ”から始まった音楽放浪記(第二部) 山田一雄 さん

【 山田一雄(やまだかずお)さんのコメント】
私は団塊世代の一期生である。東京都大田区から所沢市に移住して10年近くになる。
子供のころから種々の楽器で遊んでいた。
少しは先生について習ったが、殆ど自己流である。
ギターは長く触っている。
いま、多少の楽器が手元にあるが、時々磨いている程度である。
(写真上:高校の文化際でラテンを演奏)

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♪♪ ジャズ喫茶巡りからキャバレーへ ♪♪

 高校の時、ブラバンでクラリネットをやったが、三番クラリネットは殆ど同じ音ばかりで面白くなくてズルズル練習をさぼってしまって上達しなかった。ブラバンの何人かとラテンバンドとエレキバンドの練習に時々参加した。
 高校の文化祭ではたぶんラテンを演奏したと思う。演奏曲目は普段練習していたセレソローサとかマンボNo.5と思うが、記憶にない。今でもクラリネットの音は好きで、ベニー・グッドマンのSP盤を多く持っている。

 スイングジャズが好きになったのでf字の穴(サウンド・ホール)が開いたフルアコのギターが欲しくなってしまった。またもや大丸百貨店でカワイ楽器製の電気ピックギターを購入した。ピックアップが3個、つまみが6個も付いていて豪華であった。

 1964年頃だと思うが、渋谷公会堂でジャズドラマー白木秀雄のコンサートを聴きに行った。当時新人であったトランペットの日野皓正が少しだけ吹いていたと思う。白木氏のドラムは今まで聞いた事のない迫力で大いに圧倒された。残念ながら後に白木氏は薬の乱用で亡くなってしまった。
 その後、御徒町駅の改札前にあった地下のジャズ喫茶や、上野池之端のイトウというコーヒー店に行くようになった。この店はブルー・マウンテンが自慢と聞いていたが、私にとってはコーヒーの味は未だわからなかった。当然ながら高校生は出入り禁止であったと思うが、入店を断られたことは一度も無かった。
 イトウの店の前にはコーヒー豆の袋が置いてあった。イトウの斜め向かいにポップスのライブをやっている店があり、一度入ったことがある。たしかブルージーンズが出演していた。当時はこういう店もジャズ喫茶と呼んでいた。

 この頃のジャズ喫茶は殆どの店が私語禁止であった。イトウの入り口には真空管のプリアンプ(QUAD)があったと思う。変な所を記憶しているものだ。ジャズ喫茶木馬は新宿の靖国通りにあった。壁には時計や火縄銃などのアンティークが飾られていた。友達と待ち合わせしたが、私語禁止で一言も話をする事が出来なかった。

学生時代と音楽:
 浅草メトロと言うキャバレーのコンボバンドでウッドベースを弾いた。ここで初めて音楽で給料を得た。浅草と言えば、フラミンゴと言うジャズ喫茶があり、初めてジミー・スミスのザ・キャットを聴いてその音に痺れた。後にハモンドオルガンを買う羽目になった。
 次にジミー竹原とキューバンビーツというラテンバンドのメンバーになった。このバンドで浅草ロックにあったキャバレーや銀座ハリウッド本店の専属バンドのギター弾きになった。メンバーはピアノ、ティンバレス、ベース、ボンゴ、コンガであった。このバンドはリズム主体でダンス音楽が売りであった。
 銀座ハリウッドは“はとバス”のルートにもなっていて、吹き抜けのホール7階からツアー客がステージやダンスを見ていた。

・写真左の上の2枚:浅草の某グランドキャバレーと銀座ハリウッドの楽屋にて
・写真左の3枚目:銀座ハリウッド本店(銀座7丁目、現在の博品館の所にあった)
・写真左の4枚目:都内某キャバレー

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♪♪ バンドマンからサラリーマンへ ♪♪

 就職する直前までは渋谷のボーリング場のビルの地下にあった少し高級なベスタークラブのジャズ・コンボバンドでギターを弾いた。メンバーはテナーサックス(兼クラリネット)、アルトサックス(兼フルート)、ピアノ、ベース、ドラムと専属の女性ジャズ歌手であった。
 下手なギターを雇ってくれたラテンバンドのバンマスの竹原さん、テーマ曲メモリーズ・オブ・ユーが素敵だったバンマスの奥村さんには大変お世話になり感謝している。その頃、蒲田のアパートと学校とバンドを往復していた。

・写真右:日比谷野外音楽堂にて

 渋谷では時間があるとジャズ喫茶にいた。休憩時間に同じビルのアヴェニューという名の喫茶店でグラントグリーンのレコードを聴いた。彼の代表作であるジェリコの戦いを何回も聞いた。デュエット、オスカーなどは開店からコーヒー1杯で長時間粘っていた。

 1968年だったと思うが、10月21日に新宿駅で騒乱があった。バンドの営業が終ってから、渋谷から新宿へ様子を見に行ったが、大変な騒動であった。
 山の手線はまだ動いていた。どんどんエスカレートしていき、見物人もデモ隊も機動隊によって見物人でも一網打尽の様相であった。周りの人が逃げろ、捕まったら豚箱入りだと叫んだので、逃げたら機動隊に追いかけられ、気が付いたら新宿厚生年金会館まで走っていた。
 その後、電車は完全に止まってしまってアパートに帰れなくなった。仕方なく朝まで営業しているジャズ喫茶で夜を明かした。

 当時流行のオーネット・コールマンやローランド・カークなどのフリー・ジャズのレコードが朝まで連続で鳴っていて興奮と疲労で辛かった。
 翌朝、駅まで戻ると漂っていた催涙ガスで目が沁みた。電車は復旧していなかった。どうやって帰ったかは忘れてしまった。 
 色々あったが、バンドマン生活は楽しかった。勉強はしていないし、出席日数も少なかったが、程々の成績でなんとか学校を卒業出来ることになり、ついに会社員になる決心をした。

注:写真と被写体は全て本人が所有している物です。